建築・設備見積りソフト、見積システムの事なら 和田特機株式会社

建設業向け 業務支援タブレットアプリシリーズ 好評発売中

和田特機株式会社HP

壬申の乱Ⅱ

二週間のご無沙汰でした。SALです。

SALの思いを述べる前に、二年前のものになりますが、愚息が中一の時の歴史の教科書(中学社会歴史的分野)の関連部分を書き出して見ます。

(白村江の)戦いに敗れた(中大兄)皇子は、九州北部に防人と呼ばれる兵士をおいて唐や新羅の攻撃にそなえるいっぽう、大津で即位して天智天皇となり、戸籍をつくるなど、国内の制度づくりを急ぎました。
しかし、急な改革は人々の不満をまねき、天智天皇の死後、政治方針のちがいとあとつぎをめぐる争いから、壬申の乱が起こりました。
この争いに勝った天武天皇は、天皇を中心とする国家の建設をおし進めていきました。

以上が、壬申の乱に関する記述です。二つの括弧は、その前の記述を省略した関係で、補足すべき情報と考えてSALが勝手に挿入したものです。
ここで注目したいのは、「急な改革は人々の不満をまねき」という部分です。どのような改革でその主体は誰であり、不満の中心勢力が誰なのか、何も書いてないのですが、素直に読めば、
勝利したのが天武天皇(大海人皇子という呼称は使われていない)で、敗北したのが朝廷側の大友皇子(こちらは全く記述されていない)であることから、内乱勃発迄は、
「天智天皇と藤原氏が公地公民制を機軸とした中央集権国家を作ろうとした改革に不満を持った勢力が、大海人皇子を中心に蜂起しその内乱に勝った。」と受け取ってしまいます。
しかし、これでは最後の「天皇を中心とする国家の建設をおし進め…」と矛盾してしまいます。

天武天皇がそれをおし進め、死後律令国家が成立したことは事実なので、そこまでの解釈の方が間違っていることになります。
即ち、公地公民制に反対していたのは朝廷側の藤原氏であり、また天智天皇も防衛問題でそれどころではなかったと考えたほうが良さそうです。
更に大胆に推理すると、これまでに何度も言ってきたように、曽我氏の方を(方向は異なるが)改革派としたほうが、A→B→Aと論理的にもすっきりします。(この後、公地公民制をなし崩し的に荘園制にしてしまったのが藤原氏だから、上手い具合に→Bと続く)

では、中学の教科書の記述がなぜこのようになっているのでしょうか?
これも何度も言っているように、「正史」に基づいているためです。編纂を指示したのは確かに天武天皇ですが、完成時の編纂責任者は藤原不比等です。
現実問題として、このような教科書の記述から、どのように理解すべきなのでしょうか?

コメント