二週間のご無沙汰でした。SALです。
前々回で「乙巳の変」迄を書いたつもりなので、今回は律令国家成立をメインに考えてみたいと思います。
さて、実質の権力者である曽我宗家から、権力を奪還した中大兄皇子と中臣鎌足でありますが、古い教科書にあったように律令国家設立には至らなかったようです。
中大兄(天智天皇)にしてみれば、当時の対外問題(唐・新羅連合との戦い)、結局は白村江の戦いでの大敗北の後始末が最大の課題であり、鎌足にしてみれば最初から「公地公民制」等認めたくも無かった筈です。
ところが、歴史とは面白いもので、この後天下分け目の大内乱(壬申の乱)が起こり、その結果勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、天皇中心の中央集権体制が確立し、公地公民制を基礎とした律令国家が成立します。
簡単に言えば、この時点で藤原家(鎌足の嫡男不比等の世代)の野望も潰えたかのようです。(不比等の野心はいずれ実りますが…)
SALが此処で注目したいのは、国を二分するような大乱と強力な中央集権国家成立の関係です。
この千年程後の「関が原の戦い」と「徳川政権確立」の関係にも通ずるところかと思いますが、一番の要因は対立する最大の政治勢力を殲滅することで、独裁体制を築くチャンスに恵まれることです。
勿論、権力者はこのことを十分に意識しておく必要があり、内乱の規模によっては味方であった有力者も直ちに潰しておく場合も有りえます。
例えば、源平の合戦後の義経と範頼の抹殺がそうであり、失敗例としては足利尊氏と直義の長引いた対立があげられます。
そこで次回からは、「壬申の乱」とは一体何だったのか、SALの勝手な思いを述べたいと思います。
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